
金沢大地〜金澤流麺物語 第162回
湘南で店をしている頃から、もっと様々な事をこだわりたかった。
誰も気にしない部分を追求したかった。
僕にしか出来ない仕事がしたかったし、僕にしか作れないらーめんを作りたかった。
そしてもっと腕を上げたかった。
湘南での僕のらーめん屋としてのピークは、恐らく35〜36歳くらいだろう。
その頃、豚骨醤油としてのスタイルとしては、どこにもないものを完成させた自負があった。
しかしそこから当時のオーナーの『パートさんでも作れるマニュアル化』という方針と僕の仕事のやり方がぶつかり、僕はらーめん屋として完全に停滞どころか『退化』してしまった。
愛するらーめんは、愛するらーめんを作るという作業は、ただの流れ作業と化し、情熱と愛のないただの『カロリーの塊』を世の中に垂れ流し続けた。
僕は毎日不安だった。
このまま歳を重ねて、体が動かなくなり、厨房に立てない時が来たら、僕はらーめん屋として中途半端なまま引退を余儀なくされるのではないだろうか?
らーめん屋として後悔しながら死んでいくのではないだろうか?
だから石川県での仕事は、思う存分自分をさらけ出して、ありのままの自分で、自分の全てを丼に投影させて、僕にしか出来ない仕事で、石川県でしか出来ない仕事を貫きたい、と決めていた。
僕は『素材に拘る』『調理方法に拘る』なんてのはらーめん屋としての前に、飲食店として当たり前だと思っていたから、『どんな素材を使っているか』などを自慢げに披露するのは好きではなかった。
そんな表面上の部分で他店や世間との差異を表現するよりも、自分の世界観や夢やロマンを語っていたいとずっと思っていた。
しかし、金沢大地の醤油に触れ、金沢大地の会社の理念や存在の素晴らしさに触れて、若干考え方が変わった。
金沢大地を使うことは、金沢大地について語ることは、ロマンや夢を語ることと同義なのだ、と。
そんな金沢大地の施設と畑を見学してきた。
施設は本当に整然と整理され、整った清潔な環境で仕事をされている事にとても好感を持った。
有機栽培故に大麦以外の雑草も生い茂る。
そして有機栽培の畑は畑の周りを4メートルの緩衝地を設けなくてはならない。
外の土地の影響を受けてはならないからだ。
農薬を使わないだけに、災害や害虫などの被害も受けやすく、それらをスタッフの方々の手作業で対応されている。
その手間暇を思うと、本当に頭の中下がる思いだ。
現社長の井村辰二郎さんの代から完全に有機農法に踏み切ったという。
井村社長がそう決断した時、先代の父親を含めて周りの農業の先輩も全く理解を示さず猛反対をしたという。
誰もやってこなかった事に挑むのだ。
成功例は自分で作るしかない。
井村社長の進む道は逆風しか吹いていなかっただろう。
なぜそこまでして自分の信じた道を進み続けることが出来たのだろう?
そこには金沢大地の『千年企業』という企業理念から垣間見る事が出来る気がする。
井村社長が幼い頃から過ごした河北潟の美しい田園風景。
この田園風景、豊かな土壌と生態系を後世まで残し、同じように農業を営める様に・・・。
という想いからだそうだ。
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『器の大きな人』
と言われる人が世の中にはたくさんいる。
僕は思う。
人間の器とは、『自分で決めるもの』だと。
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僕は『月を見て耕す』という言葉が大好きだ。
『月』を見ない人はいつまでも月へは行けないが、『月』ばっかり見て目の前の畑を耕さなければ明日のご飯は食べれない。
『耕す』事は何より大事だが、目の前の畑しか見ていなかったら、絶対に月へは行けない。
だから、僕は毎日の仕事に集中しながら、僕のらーめんがどんな影響を世の中に及ぼしていくのかを毎日考える。
僕が考えれる範囲が僕の『器』の限界なのだ。
だから井村さんの様に千年とは言えなくても、僕にとっての月を見続けていたい。
鴨も常に金沢大地の有機の餌を食べるため、とても健康。
カブとサンチュをいただきました。
甚内さんは畑を開墾からずっと手掛けてきたそうです。その苦労たるや!
堆肥も自社で作り、全て自社で使用します。全て自分たちで賄う。完全なる有機農法。
人間らしさを取り戻せる様な気持ちになりました。
案内してくれた大橋さん、ありがとうございました。
シャイは大橋さんは写真を撮らさせてもらえませんでした(笑)
ほんまにほんまに、これからもどうぞよろしくお願いいたします!
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